私の知人で歯医者さんがおられます。彼が、歯科医師として、歯の健康がどれほど身体全体の健康に役だっているのか知りたい、と言って来られたことがあります。毎日口の中をきっちり診ている歯科医師さんなので、フト、自分のしていることはこの患者さん全身にとってどのように役にたっているんだろう?って思われたんだと推察します。

 ところで、実は、私は開業前に胃癌が見つかり急遽手術を受けて胃を全部取ってしまいました。これを胃を全摘(=臓器を全部とること)した、と言います。それで、胃が無い状態でどうやったら毎日の医者の仕事を果たせるだろうか?と考えまして、胃が無くなるとどのような弊害がおきるのだろうか?と考えました。

 知人の質問の回答も考えながら、歯の役割と胃の役割を考えてみたいと思います。

胃の役割

 まずは下のグラフをご覧下さい。
 このグラフは、朝倉書店刊行、森下芳行先生著、「腸内フローラの構造と機能」(1990年11月20日初版第1刷)17頁に掲載されているグラフの引用です。

グラフ1

 このグラフの見方ですが、口腔のところに4つ折れ線グラフが始まっていますね。例えば、その中の○の折れ線グラフを見て下さい。口腔から始まって直腸にまで達していますね。直腸の部分で、Lactobacillus、と名前が記載されていて、そういう名前の菌である事が分かります。日本語で乳酸桿菌、と言います。この菌は、口腔内(=つまり口の中)では唾液1gの中に10の8乗個(匹?)存在しますよ、と言うことを表しています。

 10の8乗個、とは「10×10×10×10×10×10×10×10」個、を表します。他の菌も、グラフの縦軸の6や7の所にありますから口腔内では10の6乗個や7乗個、存在していることが分かります。

 ところが、胃の中で急に減ってしまいます。これはなぜだか分かりますか?

 そうですね、胃酸のために死んでしまうのですね。然し、よく見ると、全部が全部の菌が胃の中で急に減っているのではないようです。Lactobacillus以外にもStreptococcusなんかも十二指腸で最少数になっています。これは、胃で胃酸により殺菌されているために減少してることを表しています。
 ですから、胃での殺菌作用は非常に強く、そのために小腸や大腸での菌の増殖がある程度抑えられているのだろう、と言うことがこれで分かります。
 と言うことは、私のように、胃が無くなった人間は、殺菌工場である胃が無いのですから、口腔内に存在している細菌は、口腔内の状態から始まって大腸に向かって増殖増殖を繰り返す事になります。つまり、大腸での細菌状況は胃が無くなることで大きく変わる、と言うことです。

 もちろん胃酸に抵抗力を持っている菌はいます。が、多くの菌はかなりのダメージを受けます。私のように胃全摘をした人は、胃が無くなることでそういった殺菌が行われないとすると、大腸に「たちの悪い」菌が増殖しない様にするにはどうすれば良いのでしょう?

 ヒトに味方してくれる菌(腸内細菌)を増やす事が最も重要で唯一の対策になります。

 実際、言いにくいことですが、胃が無くなってから長い間、便臭が変わりましたし、便の色調も変わりました。特に便臭は臭くなりました。しかし、ヒトに味方する菌を増やそうと、発酵食品をよく食べるようになってから便臭は改善してきましたし、便の色調も見慣れた色になってきました。
 胃の元気な人はそこまで食材にこだわることはされないかもしれませんが、胃を失う、と言うことは、腸の健康維持に非常に重要な影響を与える、ひいては身体の健康全体に大きな影響を与えるものだ、ということは理解しておく必要があります。
 ついでに言いますと、カルシウムや鉄といったミネラルなども胃酸の影響を受けて吸収されやすい形に変化しますので、胃酸が無くなると言うことは、吸収されやすい形にならない分、たくさん食べる様にしなければなりません。つまり、胃酸の消失は吸収にも影響を与えるのです。が、このことにはこの小文では深入りはしません。

 ところが、実は、治療のために胃を失った人達だけでなく、歳を取っていくことで胃酸の働きが落ちてくることが分かっています。下図をご覧下さい。

グラフ2

 英語の本で申し訳ないのですが、Physiological Basis of Aging and Geriatrics 4th edit. (by Paola S. Timiras, Informa Healthcare) p318, からの引用です。

 この英語のグラフは、ちゃんとこういう研究があるんですよ、という証拠をお見せするためのものですから、「あぁ、あるんだな」と気楽に眺めていだだくだけで十分です。
 要点を簡単に書きますと、歳を取るにつれて、胃酸の酸度は弱くなっていき、分泌量も減少していきますよ、と言うことを表しているグラフです。特に40歳代あたりから酸度も弱く、分泌量も少なく、なる傾向が見て取れます。
 ですから、歳を取るにつれて食べたいモノが変わってくる原因の一つには胃の胃酸分泌の変化が関係しているのだと考えられます。
 胃が無くなるわけではないので、胃癌で胃全摘をした人のように極端に食習慣(食材と一回摂食量)を変える必要はないにしても、食べるモノに配慮して、年齢から来る胃酸の弱体化を補ってあげるモノにしてあげた方が、胃のため、には良いことです。

歯の役割

 さて、これらを踏まえた上で、歯の役割、のことを考えてみます。

 ところで、「歯」には、大きく分けて二つの役割(機能)があります。1)消化を助ける咀嚼機能、2)発声の一翼を担う機能、の二つです。
 この小文では1)の方だけを考えます。
 当然、胃の助けをするための噛み砕く働き(咀嚼機能)、としての歯の役割が重要です。英語のグラフで示しましたが、私達は歳を取ると胃酸機能が落ちていきます。それを、歳取ってから突然「よく噛みなさい」と言われても、噛めるモノではありません。つまり、この小文をお読みになられたあなたは今からよく噛むように習慣づけて下さい。

 しかし、「歯」だけを考えるのではなく、口腔内の問題、として健康を捉えた時、非常に重要なことを一つ目のグラフは指し示しています。もう一度最初のグラフを見て下さい。

 何か気づきましたか?

 私達が「汚い」と考えている直腸(つまり肛門の手前、です!)での菌数は、口腔内の菌に対して、たった1000倍(10の3乗程度)ほどでしょ!
 もっとえげつなく言いますと便汁に含まれている菌の密度は唾液に含まれている菌の密度のたった1000倍!なんですよ。如何に、口腔内が、普段私達が思っているよりも汚いか、がわかりますね。

 このことは、高齢の方々が、時として、知らず知らずに唾液の誤嚥で大変な肺炎を起こされていることからも推察されます。見た目にはっきりと誤嚥をしておられなくても、僅かながらの誤嚥をされていることが多いので、歯磨きをして口腔内を綺麗にしておくことが非常に重要であることが分かります。
 つまり、歯科の先生方や歯科衛生士の方々に口腔内を清潔に保って貰う事は非常に重要なことです。と、同時に、日常的に歯磨きを丁寧にすることは、腸など消化管の健康維持にはもちろん、肺炎や気管支炎の予防にも非常に重要な事だと言えます。

 それから、1000倍、という「差」ですが、口腔内の菌はだいたい36°Cの体温では25~30分で一回分裂をします。簡単に考えますと、30分(=半時間)で一回分裂しますので半時間で2倍になる勘定です。そうしますと、何かを食べた後、歯磨きをしないで、しかも口の中の食物残渣が胃に流れ込まない様に何も飲まないでいますと、2×2×2×2×2×2×2×2×2×2、で1024倍になりますから、5時間(2の10乗)で1000倍を超えることになります。肛門手前の菌密度と口腔内の菌密度はこの程度の違いなんです。

 このことは、雑菌の口腔内での増殖に対して抑制効果がある、と言われている緑茶を飲んでブクブクする習慣のある人や、一日2回(と言わず3回!)歯磨きをする習慣のある人が健康維持をしやすいことが分かります。

 今日の内容をまとめますと、1)歯も含む口の中を清潔に保つ事は大事ですよ(歯磨き大切!)、2)何を食べるか・どのように食べるか、は腸の健康維持には非常に大事ですよ、の二つが今日の結論です。

大前 記(2021年8月29日)